シンテック社の会長、金川千尋博士とのインタビュー

小林久志理事長と金川千尋博士

2012年6月20日、FUTI小林久志理事長と東大渉外本部の吉田洋一氏は金川千尋氏と会見する機会を得た。金川氏は信越化学工業株式会社の代表取締役会長であり、同社の社長在任中には13期連続の最高益を達成した。この最高益の更新に大きく貢献したのが同社の米国子会社であるシンテック社。金川氏はシンテック社の創立者であり現在はシンテック社の会長をつとめている。信越化学工業の常務取締役の秋本俊哉氏も同席した。以下は昼食会での会話をまとめたものである。

小林: 金川様、本日はようやくお目にかかる機会を得まして、誠に光栄です。お忙しい中を私どもにお時間を頂き有難うございます。金川様とシンテック社にはFriends of UTokyoへの支援で、過去三年間大変お世話になっております。心よりお礼申し上げます。

金川:私も学生時代は東大で勉強させて頂きお世話になりました。またシンテック社を設立して経営する機会を私に与えてくれたのはアメリカです。アメリカ人の開かれた心と米国社会のフェアネスによるところが大きいと思います。そういう意味でお世話になった東大、そして私にビジネスを行うチャンスをくれた米国にある大学との交流を図るFriends of UTokyo のお役にたてるのは喜びの至りです。

東大での学生時代

吉田: 金川様は旧制時代の東大に学ばれたと思いますが、本郷のキャンパスのみでしたか?

金川: そうです。旧制では、大学は3年間で、その前に高等学校で3年、さらにその前に中学校で5年間学ぶという制度でした。中学校を4年で終わらせて旧制高校に進む特別に優秀な人もいました。当時駒場キャンパスは第一高等学校(旧制一高)でした。私は、現在の岡山大学の前身であった旧制六高で学び、昭和22年に六高を卒業して直ちに東大法学部の政治学科に入学しました。

小林:東大での学生時代は如何でしたか?

金川:私の父は東大法科で学び裁判官になりました。私も父の様に法曹界に進む途もありましたが、法律の勉強は好きになれませんでした。私の取った法律の講義は哲学のようでもあり、社会学のようでもあり、私にとっては掴みどころがありませんでした。一番面白かった講義は岡義武先生の「近代日本政治史」でした。刑事訴訟法や民事訴訟法などは面白さがわかりませんでした。結局、東大では法律を十分学ばずに卒業してしまいましたが、社会人になってから実務上法律が必要になり随分勉強しました。商売は真剣勝負ですから、仕事に関係のある法律の勉強は力になりました。

東大での学生時代(昭和22年から25年)は、第二次大戦での敗北から間もない頃だったので、日本全体が貧しいときでした。上京した時の記憶は焼け野原と闇市場です。食べるものにも事欠き、東大で勉学の傍ら、家庭教師などをやってお金を稼がねばなりませんでした。六高での楽しい学生生活に比べると、戦後という時代背景もあり大学時代は良い思い出が多くなかったですね。

小林:私は小学校一年生の時に終戦を迎えました。当時私の家庭は東京から長野県の南佐久に疎開していましたが、食料は不足していました。農家の人たちも自分等の作った米を十分食べる事が出来ない状態でした。米の配給は役所の管理統制下にありました。私が東大生だった頃(昭和32年ー36年)でも、食べ物は今のように豊かではありませんでした。

シンテック社を興す

吉田:東大を卒業された後、直ちに信越化学に入社されたのですか?

金川:いいえ。最初に勤めたのは極東貿易という会社です。占領軍のGHQが三井物産を解体して誕生した幾つかの会社の一つです。そこで12年働きましたが、昭和37年、35歳の時に、信越化学に移りました。商品を右から左に流す商社の仕事よりも、モノを作る企業に興味を持つようになったからです。極東貿易時代に英語をしっかり勉強していたので、信越化学では海外事業部に配属され、塩化ビニルの製造技術などを売り込む為に直ぐ世界中を飛び回ることになりました。

小林:シンテック社は塩化ビニルのマーケット・シェアで世界一と伺っていますが、どのようにして会社を設立されたのですか? これ程まで成功された原因は何ですか?

金川:1972年秋に、水道管などに使われる塩化ビニルパイプの大手メーカーであるロビンテック社から信越化学の製造技術を買いたいとの打診がありました。しかし、製造技術は当社のビジネスの生命線ですから、売ることはせず、合弁会社を設立すべきというのが私の判断でした。翌年の1973年に塩化ビニルの製造と販売を行う目的で、テキサス州ヒューストンにシンテック社を設立しました。信越化学とロビンテック社がそれぞれ250万ドルづつ出資しました。

1973年の第一次石油ショックのため塩化ビニルの価格は急騰しましたが、1974年にはその反動で急落しました。シンテック社はこのように厳しい市況の中、1974年10月に製造を開始しましたが、生産量は年間10万トンでした。

設立当時、シンテック社の北米におけるマーケット・シェアは3%で13位でした。設立時のシンテック社のパートナーでしたロビンテック社のCEOはブラッド・コーベット氏でした。彼は1974年にテキサス・レンジャーズを買収するなどエネルギーが全身から迸るやり手のビジネスマンでした。しかしロビンテック社の業績が悪化し、1976年同社の要請で信越化学は同社保有のシンテック社の株を買い取り、シンテック社は100%信越化学の子会社になりました。

小林:それで金川様ご自身が、社長になられたわけですね?

金川:いや直ちになったのではありません。私は会長になり、大企業で管理職をやっていた米国人を社長に採用しました。しかし彼と私の経営方針に違いがあることが分かってきました。例えば営業担当者の数に関して彼は40人の営業担当者が必要であると主張しましたが私は2人の営業担当者で十分だという考えでした。そんなこともあり1978年3月に私自身がシンテック社の社長になりました。

吉田:日本とアメリカという距離もあり経営では大変ご苦労をされたのではないですか。

金川:当時、私は日米間を一ヵ月ごとに往復していました。困難な問題にも次から次へとぶつかりました。1979年の第二次石油ショックの反動として、塩化ビニルへの需要が落ち込み、1980-81年はもっとも厳しい時期でした。もし製品が売れなければ、工場を止めねばならない。心配で眠れぬ夜が続きました。営業担当者と一緒に米国中を飛び回り、直接顧客と会い、値段の交渉なども行いました。その結果、最悪期でも何とか黒字を確保できました。その後レーガン大統領の減税政策という追い風もあり1987年からはシンテック社の業績が拡大しました。

しかし業績が順調な時期でも息は抜けません。売上高や利益を伸ばすには、製造設備を増強しなければなりません。しかし素材産業の場合、小幅の増設は難しい。また増設したら、その設備を100%稼動させるだけの十分な販売をしなければなりません。したがって増設への投資には常に大きなリスクが伴います。

小林:シンテック社の規模はどのくらいですか?

秋本:現在の生産能力は年間263万トンですから、1974年の創業時の10万トンの26倍になります。マーケット・シェアは1974年の3%から2010年には36%に伸びました。2011年の経常利益は2億5千1百万ドル、(201億円)です。

金川:北米全土を8人の営業マンがカバーしています。銀行から借入金や債務はゼロですから、専門の財務担当者はおいていません。私の秘書を勤める米国人女性は売上代金を回収する仕事も兼務しています。経営陣もスリムでシンプルです。長い間シンテック社の取締役は三人だけでした。私の信条は、組織は出来るだけ簡素にし、少数精鋭主義に徹して会社を運営することです。

小林: 昨年11月に金川様の博士号授与祝賀パーテイの招待状をいただきました。生憎同じ日に品川でおこなわれたNICTのコンフェレンスで講演するスケジュールと重なり、残念ながら出席出来ませんでした。遅くなりましたが、お祝いを申し上げます。

金川様の体験談、人生観は老若男女を問わず、我々全員を感動させます。FUTIニューズレターの読者、特に若い世代に大きな刺激を与えることと信じます。

本日は金川様とシンテック社に関して大変貴重なお話を伺う機会を頂き、心より御礼申し上げます。今後もFriends of UTokyo のご支援をお願い申し上げます。どうも有難うございました。


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