寄付者メッセージ

前号に引き続き、今会計年度にFUTI にご寄付をされた皆様の中から数人の方々にメッセージをお願いいたしました。ご返事を下さった方々のメッセージをお名前の50音順でご紹介いたします。一人でも多くの読者が共感されて、残された一ヶ月半で皆様からのご協力を得て2013-2014年度のキャンペーンも実り多い物にしたいと願っております。

Aoki_150青木昭明
ソニーユニバシティ 学長

1964年東大物理工学科卒
1969年ノースウエスタン大学材料科学科Ph.D.取得.
1970年ソニー株式会社入社、同社取締役(1989)、常務取締役(1996)、ソニー・エレクトロニクス・インク社長兼COO (1998), ソニー株式会社業務執行役員専務を歴任し、2005年より現職.

財団法人ソニー教育財団副理事長、米国ノースウェスタン大学Kellogg School アドバイザリーボードメンバーでもある


異文化に触れること、しかも若い時に。

人生を振り返ってみて、この事が如何に大切かを痛感している。自分の留学経験から(1964年東大物理工学科卒業後、ノースウエスタン大学でPh.D.を取得する間の5年間)、東大の学生に米国への留学を、又米国の学生に東大への留学を是非とも勧めたい。

随分昔の話になるが、はじめて米国に留学生として住んでみて、自分が日本にいた時に抱いていた米国観あるいは米国人観が如何に偏っていたかを思い知らされた。また一方日本を離れて、それまで気が付かなかった日本の良さを再認識することが多々あった。米国での就職はならなかったが、ソニーに入社して2度に渡り米国に赴任し、グローバルに活躍できたのは留学経験によるところが大きい。

大学院時代に培った米国での人脈、また米国で知り合った日本人の人脈の双方により、ビジネスを進める多くの局面で随分と助けられた。米国と日本は、歴史や文化の面で大きな違いがあるが、政治、経済の面では同じ価値観を持っている。

これからのグローバル化する世界で日米の相互理解のもと、緊密な連携が益々重要になる。それを若い世代の方々に担っていただきたい。そのためにFUTIが少しでも貢献できればと願っている。


Asami_150浅見 徹
東京大学情報理工学系研究科教授

1974年京都大学工学部卒
1976年同大学院修士課程修了
学位:東京大学情報理工学博士

1976年国際電信電話株式会社(現KDDI)入社、KDD研究所取締役(1993年)、KDDコミュニケーションズ取締役(1996年)、KDDI研究所取締役所長(2001年)、同副会長(2005年)を歴任し2006年より現職。


昨今の日本ではブラック企業という言葉が跋扈していますが、「労働」という言葉は明治期に日本の学者が欧米の書物を翻訳した過程で創造され、中国語辞書にも日本語からの外来語として掲載されています。つまり、この言葉は東アジア文化圏にはなかったわけです。言葉がないということは、そのような概念もなかったということです。

このように明治期から昭和にかけての日本は欧米と接触することを通じて、色々な言葉を新たに創造し、自分たちの世界観そのものを豊かにしてきました。富国強兵だけの100年間ではなかったと思います。それらの概念は、今ではすっかり定着し、私たちが昔からそのような考えをしてきたかと錯覚してしまうほどです。

この種の進取の気性は、日本が欧米をキャッチアップした1980年代から薄れ、次 第に国内に閉じこもりがちな社会になっています。これはグローバリズムを標榜する一見進歩的なマスコミなどでも、同様です。例えば原発問題にしても、国際問題としてとらえて論じることは日本では稀です。宇宙船地球号という観点でとらえて議論してほしいものです。

教育とは一種の洗脳です。このため、日本に限らず、自国にいたのではなかなか、その国のものの考え方を打破することはできません。是非、若い柔軟な頭を持っているときに海外に飛躍し、色々な考え方の人々を知り、発想の豊かな人材になって欲しいと思います。そうすれば戦争も決して想定外のことではなく、日本で育ったありがたさも分かるでしょう。理系、文系を問わず、次代の世界を支 えるのはそのような人だと思います。FUTIは、そうした人を援助してくれる組織です。


Ito_150伊藤澄子
アルカディア・キャピタル社( Arcadia Capital, Inc.)社長

1974年:東京大学経済学部卒
1974-1980: 厚生省勤務
1978-1980: オックスフォード大学経済学科修士(M.Phil)
Strategic Planning Associates (ワシントン、D.C.), 米国野村證券 (ニューヨーク), 投資銀行アレックス・ブラウン(バルチモア)等に勤務した後
1991:アルカデイア・キャピタル設立。


東大同窓生室の知り合いの方から、「今年10月18日のホーム・カミングデーには是非いらしてください。貴女にとっては卒業40年目の記念すべき年ですから。」とメールをいただきました。メールを読んだ一瞬、まさか、と思ったのですが,卒業生室のデータが間違っているはずもなく、確かに22歳の春から数えて、それだけの年数が経ていることを確認し,感慨に浸ったものでした。

大学で過ごした4年間と、その後の40年間を比べてみると、私の人格の大きな部分が形成された時期が前者であって、その後はその緩やかな発展ということでしょうか。18歳から22歳 の私にとっての東大での4年間は,それほど重要な時期であったと今になって思います。駒場のキャンパス、本郷キャンパスで過ごした日々は、昨日に比べて今日の方が少しだけ「大人に近づいた」と感じる日々でした。ここで言う「大人」とは,社会のルールを弁えた保守的な人間という意味ではなく,世界は多様性に溢れ,個人の生き様はその多様性の一つに過ぎない、という認識がベースになった感覚だったと思います。

その多様性を教えてくれた場所が、駒場キャンパス、本郷キャンパス、生協の本屋、検見川グランド、それぞれのキャンパスの近くにあった喫茶店(懐かしい呼び名です!)、雀荘、飲み屋さんなどであり、そこで出会ったクラス、ハンドボール・クラブ、ゼミナールなどの仲間たちでした。いまのように、Facebookも、LINKも,携帯電話さえもない時代でしたけれど、友情を求め合い育んで行く手段も機会も十分にありました。(唯一の不満は、女性が絶対的に少なくー例えば,私の所属した経済学部は一学年400人のうち、女子はたったの4人ー95%の友人達が男子だったので、私の性格が男っぽくなってしまったことくらいです。)

さて、私はFriends of UTokyo, Inc. の発足当時から、その活動のお手伝いをさせていただいています。当初は諮問員会委員として、ここ2年間は理事の一人として,東京大学の米国での認知度が高まり、東京大学そのものと、東大生の国際化に役立つようにと、努力しています。少額ですが,寄付も毎年続けています。その理由は、FUTIスカラシップ制度を通じて、少しでも多くの優秀なアメリカ人の学生が東京大学のキャンパスで学んでほしいと願うからです。また、日本人の学生たちが、これらの留学生と友情を育むことで、自分たちが持っている多様性を生かすことに自信を深めてくれたら、たいへん素晴らしいと考えています。


Okubo_150大久保貞義
獨協大学 名誉教授

ロイヤルハウス石岡 代表取締役
1959年 東京大学教育学部卒業、毎日新聞社編集局入社
1961年 東京大学新聞研究所卒業
同年 スタンフォード大学院留学(修士課程)、プリンストン大学大学院留学(行動科学専攻)
1964年アメリカ議会奨学生として留学(議員政策担当秘書)
1967年東海大学広報学科助教授
1978年フルブライト交換教授(UCLA)
1980年独協大学教授、2006年同名誉教授


Friends of UTokyoから、応援文の寄稿を要請されました。私の寄付などほんのわずかで、役に立たないほど少額で、原稿を寄稿するのは恥ずかしいと思っていました。しかし、是非といわれて渋々筆を取りました。書き始めてみると昔々の青春時代の追憶が思い出されて、つい筆が滑ってしまいました。昔を思い返すと、私の青春はアメリカ人の寄付の恩恵で、非常に多くの各界の人達にお会いし、自らの人格を形づくってくれたものと思い、感謝でいっぱいです。

忘れ去っていく古き思い出の中で、プリンストン大学の奨学金、アメリカ議会の奨学金、フルブライトの奨学金等、私の人間修養に忘れられない奨学金ばかりが頭に浮かんできました。合計すると奨学金は多額になる事に気付き、”驚き”と楽しい青春時代の“追憶”が生々しくよみがえってきました。もしあの時の奨学金を得られなかったら、私の人生どうなっていただろうかと思うと、実に大切な奨学金だったと、今になって感謝の気持ちが大きく湧き上がって来ました。

私は、アメリカの奨学生ではありましたが、奨学金の返済を要求された事はありませんでした。一方、日本の奨学金はまず“返却”を要求してきたばかりでなく、“利子”まで取るという日本的奨学金に呆れるばかりでした。約10年前に、当時の大蔵大臣だった塩川正十郎先生に「日本の奨学金は奨学金でなく、ローンではないでしょうか。奨学金の返済は中止すべきだ。」と申し上げ、さらに「返済を迫られたら有難味がなくなり、奨学金の効果はゼロになるのではないでしょうか。日本にグローバルな人材が育たない要因は、この奨学金の貧困な発想にあるのではないですか。」とお話申し上げると、塩川先生は「その通りだ。」と言って、自ら国会の委員会や文部省に改革の意見を述べられたのを記憶しております。その後文部省の育英会の機構は変わったようですが、「返還金と利子要求」は全く変わらなかった様な気がします。

日本には「寄付文化」がないと言われています。しかし、求められなければ寄付は出来ません。しかも、感謝の気持ちがなければなりません。

旧学士会の跡地には、伊藤国際学術研究センターや旧東大新聞研究所の建物はベネッセが建物を寄付して、昔と別の場所に立派な東大新聞研究所の建物が建っています。 このような大型寄付は“不動産”ですが、必要なのは若者にお金を渡して自由に散財させる使い方こそ、人間形成に役立つ奨学金ではないでしょうか。

奨学金は人材育成の役割が最も重要で、若い時にお金を使う事はお金の重要性を知り、その使い方で人間形成に役立つようにするのが大切ではないでしょうか。私としては、流動的な奨学金がもっと日本にあってこそ、人材が育成されるような気がします。

「そんな遊ぶ金などもったいない」と思う方もおられるでしょう。ところが、お金の使い方を知らない方は、お金の効果が判らずに予算の配布をするから、発想力豊かで創造的な社会を作り上げられないのではないでしょうか。そして、“遊びの精神”がなければ「寄付文化」も生まれないでしょう。日本人にとって、見た事も考えた事もない若者の素晴らしいグローバルな発想も現れません。自由な発想で寄付金を使い、型破りの若者に散財させるという事がないと、日本の人間社会は面白味もない無味乾燥な社会になってしまうのではないでしょうか。

日本の政府の奨学金も、ローンから脱却して、日本の若者に自由に使う事が出来る奨学金にすべきでしょう。そうする事によって日本人の貧困な発想から脱却を出来るチャンスが若者に与えられ、「寄付文化」の花咲く社会になるのではないでしょうか。


Tung_250コー・ヤン・タン (董 克勇).
モリソン・フォスター社 (Morrison & Foerster)上席顧問

1970 年:ハーバード大学学士
1973 年:ハーバード大学法科大学院 法務博士号
1973-1974: 東大法学部研究生
1999-2003: 世界銀行, 上席副社長兼法務担当役員
2000-2003: 投資紛争解決国際センター, 事務総長
2003-現在: モリソン・フォスター社


東大同窓生の皆さん:

この機会に私の人生の一部と母校東大に関する私の考えを述べさせていただきます。私は中国・北京生まれですが, ハイスクールと大学進学のために米国に移るまでは日本で育ちました。ハーバード大学法科大学院の学生時代、米国と日本両国に影響を及ぼす法的展開が急速に進みつつありましたが、それに取り組むには、私の日本の法律に関する知識では不十分であることを悟りました。それは1970年代初めで、日本が世界における経済大国として台頭しつつあり、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベスト・セラーになった頃でした。

それで、私は日本の法律を学ぶという明確な意図を持って東大の法学部に入りました。しかし驚いたことに(後から考えれば当然だったのですが)、私が学んだことで一番重要だったことは日本の法律そのものではなく、日本、その人達、その文化、その価値観に関することだったのです。東大の先生方はどなたも、「外人」である私に対して、法律の裏に潜んだ社会学的、歴史的起源を、辛抱強く説明して下さいました。同級生たちは、私を彼等の仲間として扱ってくれ、彼等のざっくばらんな議論にも参加させてくれました。東大にはたった一年間しか在籍しませんでしたが、それは大変貴重な学習経験でした。そのお陰で、後に仕事の面では、世界銀行の上席副社長兼法務担当役員として、また私的な面では西洋と東洋の文化の両方を理解出来る者として、ダイナミックに変わるグローバルな問題に対処することが出来ました。

東大は単に学位を得るための場所ではありません。 我々を形成してくれる所です。実際、”alma” は「育てる」を意味し、”mater”は「母」を意味します。東大は私たちの世話をし、今日ある私たちを作り上げてくれた母のような存在です。これを、当たり前のように考えてはいけません。私達は東大で養育されるという特権を与えられたのです。ですから、皆さんが一人ひとりが、日本人も、外国人も 母校東大を支援して下さることをお願い致します。皆さんが東大から得たものは沢山あった筈です。東大が今後も、法律、医学、芸術、ビジネス、文学、他のあらゆる分野における明日の世界のリーダーを育成し続けられるかは、ここで皆さん一人一人が東大に恩返しをして下さるか否かに懸かっているのです。


ニューズレター第10号の記事: