小石を吐き捨て夢を追う

小野 雅裕、MIT

●「外向きな若者たち」

アメリカの大学院への学位留学を志す日本の学生を支援するために、僕は2010年に留学仲間や留学経験者の友人たちと「米国大学院学生会」を立ち上げ、日本各地の大学で留学説明会を開催すると共に、メンタープログラムの運営、ニュースレターの発行などを行っている。2010年12月に全国6大学で主催/共催した留学説明会には合計で約千人の参加者を得、2011年夏にも5大学6キャンパスに合計800人を集めた。(過去の留学説明会の詳細についてはニュースレター2011年2月号および8月号を参照されたい。)2011年12月にも早大、慶大、東大、京大、阪大、大阪府大にて開催予定である(詳細は後日にメーリングリスト等にて告知予定)。

留学説明会に参加しに来る学生たちは皆、驚くほど熱心だ。たとえば僕がパネリストの一人として登壇した東大での説明会は350人収容の大教室に立ち見が出る盛況で、熱気が部屋にむんむんと満ちていた。会は大幅に時間を延長したにも関わらず質問の挙手が尽きなかった。その後の懇親会でも僕たちは質問攻めにあい、食べ物を口に運ぶ暇すらなかった。どうやったらMITに入れるのか。どうやったら高い学費を払えるのか。どうやったら英語が上手くなるのか。彼らはそんな質問を次から次へとぶつけ、納得するまで質問を繰り返した。海外でチャンスを掴んでやろうという固い意志の炎が彼らの目の中に燃えたぎるのを見て取れた。「最近の若者は内向き志向だ」などと一律に決め付けたのはどこの馬鹿野郎だと思った。そして僕はそれらの質問にひとつひとつ答えながら、貪欲な彼らの姿に過去の自分を重ねていた。

 

呑み込めなかった小石

僕は大学を卒業した後、22歳で渡米し、マサチューセッツ工科大学(MIT)の航空宇宙工学科で修士・博士を取る道を進んだ。僕をこの道へ連れ出したのは、少々物分りが悪い性格と、あるひとつの幸運な出会いだった。

その出会いがあった学部四年生の頃まで、僕は学位留学という選択肢を考えもしなかった。意志が無かったのではない。ただ、選択肢の存在を知らなかったのだ。周囲に前例が誰もいなかったから、一介の学生として正規留学する道があるなんて知りもしなかった。だから僕は、宇宙への夢と、漠然とした海外への興味を持て余しつつ、バイトをし、飲み会で騒ぎ、テニスに耽り、他の多くの人と大差のない大学生活を、さしたる疑問もなく送っていた。卒業後は九割の友達がそうするように、僕もそのまま大学院へ進み、修士まで出てどこかの会社へ就職するのだろうと思っていた。宇宙が好きだったから、JAXA (宇宙航空研究開発機構)か人工衛星メーカーにでも行ければ大成功だと思っていた。

しかし、何か小さな違和感を常に感じていた。その違和感は小石のようなもので、僕を突き動かすには軽すぎたけれども、かといって口に入れて呑み込んでしまうには固すぎた。

その違和感とは、一体何だったのだろうか。

 

●夢と憧れと現実と倦怠

僕は物心が付いた頃から宇宙が好きだった。父親が大学時代に天文部で、毎週末に自作の天体望遠鏡で星を眺めているような人だったのだが、彼があまりに楽しそうに夜空を眺めているから、僕にもちょっと見せてよと背伸びして望遠鏡を覗き込んだ。そしてその丸い視野の中に浮かんでいた凸凹の月や輪を携えた土星、尾を引く箒星の映像が、焼印を押したように僕の脳の奥深くに刻み込まれたのだった。

そして僕はそのまま成長した。大学の専門はもちろん航空宇宙工学を選んだ。学生が手作りで人工衛星を作る研究室に加わり、プロジェクトに没頭した。徹夜で作業をしていても、自分が今作っている回路やプログラムが本当に宇宙を飛ぶのだと思うと興奮で目が覚醒した。既に打ち上がっている衛星と交信するときには、宇宙からの電波を今自分の耳で聞いているのだという実感に身震いした。大学の薄汚い実験室に篭りながら、幼い頃に夢見た燦然と輝く光の世界へ、ドアを一枚、一枚開けて近づいているのだという充実感が僕の体に溢れていた。

僕の夢は宇宙にあった一方で、将来のことを思うとき、憧れたのはヒーローたちの生き様だった。幼稚園の頃は人並みに戦隊モノやアニメのヒーローに憧れた。小学校の文集に、周りの男の子たちがサッカー選手になりたいなどと書く中で「ノーベル物理学賞を取りたい」と書いた僕は少し特殊だったのだろうが、「ヒーロー」の定義が違っただけだったのだと思う。中高の頃はロックミュージシャンに憧れ、文化祭でギターを弾き、こっそり曲を書いたりもした。僕は科学と同じくらい文学が好きなのだが、ありふれた男女の切ない恋慕の情をなよなよとした心理描写で書き連ねる作品よりも、「坂の上の雲」「三国志」「ガリア戦記」そんな力強い魂を持ったヒーローの志を追う作品を好んだ。そして宇宙開発の歴史はヒーローにあふれていた。はじめて宇宙を飛んだガガーリン。はじめて月に足跡を残したアームストロング。ロケット工学の礎を築いたゴダート。そして月ロケットを開発したフォン・ブラウン。彼らの生き様はカッコよかった。自由だった。妥協せずに生きていた。だから僕も彼らのように生きたかった。チケットを買って客席に座る一万人の中の一人としてよりも、ステージの上でスポットライトを浴びて歌い踊る主役として生きたかった。動物園で餌を与えられて飼われるよりも、草原で獲物を狩って生きたかった。カタログから選ぶような人生よりも、伝記に書かれる人生を生きたかった。そして死ぬときには、墓石に名を残すよりも、成した業績で名を残したかった。

しかし、大学生活も後半になり、一緒にバンドをやっていた友人たちが髪を黒く染め直してOB訪問などを始める頃になると、今まで「夢を抱け、志を持て」と僕に散々教え込んできた社会は、掌を返したように現実的な将来設計を迫った。そして東大理系学生にとっての現実とは、九割の友達がそうするように、修士まで出て大手に就職することなのだという暗黙の了解があった。だから僕も修士課程の入学試験の勉強をしつつ、学科推薦枠のある企業のリストをなんとなく眺めながら、このどこかへ行くのかな、と漠然と考えていた。そうしたいからその道を選ぶのではなく、他の道を選ぶ理由がさしてないからそう思っていただけなのだけれども、かといってそんな未来に具体的な不満があるわけではなかった。ただ、僕は恐らく他の人と比べて少し物分りが悪く、自分を周囲に適合させるのが苦手だった。だから僕の喉には、幼い頃の情熱の燃えかすが小石のような違和感として、呑み込みきれずにつっかえ続けていた。それは「自分の人生を設計すること」がいつの間にか「会社を選ぶこと」に置き換えられることへの違和感だった。「夢を現実にすること」が、いつの間にか「現実に夢を合わせること」にすりかえられることへの違和感だった。

 

●吐き捨てた小石

そんな倦怠の最中に、僕はその人と出会った。彼は東大の同じ研究室の先輩で、学部卒業後にMITの航空宇宙工学科に留学して修士を取り、当時は博士課程にいた。休暇で日本に帰省中に研究発表をするために東大に帰って来ていたのだった。彼の研究内容は難しくてよく理解できなかったが、彼が僕よりもずっと大きな世界で、ずっと自由に知的好奇心を追求して生きていることはよく分かった。彼が進んでいる道のほうが、自分が進もうとしている道よりも、過去に自分が憧れた生き方にずっと近いように思えた。にもかかわらず、彼はたった数年前まで僕と同じ大学の、同じ学部の、同じ研究室にいた普通の学生だったのだ。「彼にできるなら、僕にだってできるはずだ。」そう思った時、消えかけていた情熱に再び火が灯ったのを、僕は確かに感じた。

彼は研究発表が終わった後、先生や研究室のメンバーと夕食に行くというので、僕も一緒に付いて行ってちゃっかりと彼の隣の席に座った。そして僕は彼を質問攻めにした。どうやったらMITに入れるのか。どうやったら高い学費を払えるのか。どうやったら英語が上手くなるのか。彼から返ってくる答えのひとつひとつに、僕は目から鱗が一枚、一枚と剥がれ落ちた。空一面を覆っていた暗雲が割れ、光がぱっと差し込んだ感覚だった。そしてその光の下に照らされていたのは、友達と一緒に歩いてきた大通りとは違う、今までは見えていなかった細い道の入り口だった。その道の標識にはこう書いてあった。

「MITへ行って、NASAで宇宙開発に携わる。」

僕は、呑み込みかけていた小石をペッと吐き捨てて、その細い道を無心に駆け出したのだった。

 

●夢の続き

その先輩がその後も非常に親切に出願方法などを指導してくれたおかげで、僕は夢の半分を叶え、MITへ入学した。しかしそこからが大変だった。英語や文化の差に苦しみ、友達が思うようにできず、ディスカッションでは他の生徒から相手にすらされなかった。友達を作ろうと飲み会へ行っても誰ともまともに話すことができず、敗北感にまみれて一人で部屋に戻るときの辛さといったらなかった。アメリカの大学院では学生は先生にResearch Assistant (RA)として雇ってもらい学費をカバーするのだが、僕を雇ってくれる先生はなかなか見つからなかった。自分のことで手一杯になっている間に、日本に残してきた彼女との遠距離恋愛も終わってしまった。そうして、僕が留学前に持っていた自信はみるみる失われてしまった。

しかしたとえ辛くとも、それが夢を追うことの代償ならば、夢を妥協して違和感を無理やり呑み込むよりもよほど我慢できた。だから僕は泥臭く頑張った。ディスカッションでは他の生徒にかなわないから、プログラミングや数学で他の生徒を出し抜こうと努力した。授業で先生にアピールするために、たとえ既に知っていることでも知らないフリをして手を挙げ質問した。RAを出すお金がないと先生に拒まれたときは、お金はいらないから研究室で働かせてくれと食い下がり、研究課題をもらった。それで結果を出せば、次にRAのポジションが空いた時にきっと自分に回ってくるだろうという魂胆だった。(この頃の体験は月刊『留学交流』へ寄稿した記事「レンガを積むが如く」に詳しく書いたので参考にされたい。 )

そうした努力の甲斐あって、半年間彷徨った挙句に宇宙ロボティクスを研究している先生に雇ってもらうことができた。修士の研究では、宇宙太陽光発電所など大規模宇宙構造物を組み立てるためのロボットの制御の実証実験を行った。博士からは研究室を移籍し、無人の宇宙船や飛行機を安全に航行させるための人工知能・自動制御の研究を行っている。もちろん日々の研究は楽しいことばかりではないが、自分の力で地を蹴り前に向かって這っているのだという感覚が確かにある。そして自分が這っていく行く先には、NASAへ行くという、夢のもう半分があるのだ。だから僕がこの道を選んだことへの後悔は一切ない。昔憧れたヒーローたちのように自由に生きているのだという陶酔感すらある。もし22歳に戻っても、僕は迷い無くもう一度この道を選ぶだろう。つくづく、僕は出会いに恵まれた幸運に感謝した。

 

もしあなたが小石を呑み込もうとしているなら

そして、MITで生き残っていく自信をどうにか取り戻し、留学も三年目になった冬に、一つの考えが浮かんだ。もしかしたら日本の大学には、あの時の僕と同じように、呑み込みきれない違和感を抱える物分りの悪い学生が多くいるのではないか。しかし、僕とは違って出会いに恵まれず、チャンスの存在を知らないままに、結局はそれを無理やり呑み込んで、皆と同じ道を歩いてゆく人が少なからずいるのではないか。ならば、あの時に先輩が僕にしてくれたことを今度は僕が後輩たちにするべきではないか。

そう思い立った僕は、様々な方からの理解と協力を得て、2007年の年末の帰国時に東大で「アメリカ大学院留学説明会」を開催した。個人開催の会にも関わらず、約150人近くの熱心な参加者を得た。2009年夏に再度開催した会も前回以上の反響を得、この活動を必要とする人が多くいることを確信した。さらに嬉しいことに、僕は仲間を得た。2009年の説明会にゲストスピーカーとして招いた留学の先輩が、翌年に東工大でも同様の会を開催したいと言ってくれたのだ。また、参加者として僕の話を聞き、その後にStanfordへ留学した学生が、今度は自分が東大の留学説明会をしますと名乗り出てくれた。それだけではなく、彼は彼の友人たちと友に東大にUT-OSAC (University of Tokyo Overseas Study Advisory Community)という学生団体を立ち上げ、留学説明会が組織的に継続されていく仕組みも作ってくれた。(2010年以降、東大での説明会は、UT-OSACによる主催、米国大学院学生会の共催という体制で年に二度開催されている。)

そこで、この活動の輪をさらに拡げるため、僕は2010年夏に全米の日本人留学生に声をかけ、「米国大学院学生会」を設立した。新しく加わってくれたメンバー達のリーダーシップと、僕たちの活動理念に共感してくれた日本の多くの大学・団体の支援のおかげで、活動は急速に大きくなり、2010年末に6大学、2011年夏にも5大学で留学説明会を開催した。また、メンタープログラムやニュースレターなどの新たな取り組みも始めた。

もちろん僕たちの活動の目的は、日本の学生に一律に留学を薦めることでもなければ、日本に残る道と海外へ出る道を比べその優劣を語ることでもない。事実、日本社会でカッコ良く活躍している人は大勢いる。僕の父親がそうだし、僕の妻がそうだし、また僕の多くの友達もそうだ。きっと九割の日本人は、自分の夢や目標が日本国内にあって、国外よりも国内のほうがより活躍できる人だ。ならば誇りをもって日本に留まる道を選べばいいと思うし、そうやって頑張っている人たちを僕はとても尊敬している。

僕たちはただ、残りの一割の物分りが悪いはみ出し者たちに、就活情報誌に載っているよりもはるかに多くの選択肢がこの広い世界にあることを知って欲しいのだ。敬語を正しく使う、場の空気を読む、お酌をする、そんなガラパゴス的な特殊技能が使えなくとも何の引け目もなく自分の好きなことに没頭できる場所がある。「自由に生きろ」などというロックの歌詞をいい歳して真に受けるような青臭い奴も、冷笑を浴びることなく夢を追える道がある。そのことを伝えたいのだ。鴻鵠の志をエントリーシートの四角い記入欄に無理やり押し込める必要は無い。収まりきらなければ収めなければいい。はみ出し者扱いをされるくらいなら自分から飛び出してしまえ。

もちろん、夢は追い続ければ叶うなどと、ディズニー映画の台詞のようなことを言うつもりはない。叶う夢の数よりも破れる夢の数のほうがずっと多いことくらいは僕だって承知している。長い人生の中には、受け入れなくてはならない不条理なんて山ほどあることも知っている。それでも、たった二十歳そこそこで違和感を呑みこみ夢を妥協しなくてはいけないほどには、世界は狭くなく、人生は短くはないとも、僕は思う。

だからもし、あなたが就職活動や院試の準備を始めるとき、何か喉につっかえる違和感を感じたならば、それを無理して呑みこむ前に、この島の外に自分がより活躍できる場所があるのではないかと、一度立ち止まって考えてみて欲しい。そして、もしあなたが学位留学の道を選ぶならば、僕たちはそれを全力で応援する。

*本記事は「開国ジャパン」ウェブサイトおよび「留学交流」ウェブマガジンに掲載されました。

 

●米国大学院学生会の活動について

米国大学院学生会は主に三つの活動を行っている。

第一が留学説明会だ。留学生/留学経験者が日本の大学のキャンパスに赴き、留学について講演やパネルディスカッションを行う。目的は、情報と情熱を伝えることである。つまり、出願方法、奨学資金獲得方法や英語の練習法など客観的な情報を提供するのみならず、僕がこの記事に書いたような主観的な体験を伝えていきたいと考えている。留学生たちが普通の道を外れわざわざ特殊な道を選んだことには、皆、何かしらの強い理由がある。その理由は十人十色だけれども、それぞれに呑み込みきれずに吐き捨てた何かがあって、彼ら彼女らを海の向こうへ駆り立てた夢や、志や、使命感がある。そんな熱い情熱を以って日本の学生たちの間に充満しているガスに火をつけるのが、僕らの役割である。

留学説明会への参加はすべて無料である。会の後の懇親会で留学生たちと直接話す機会を設けている。現在までに北大、東大、東工大、早稲田、慶応、東京理科大、名大、京大、九大で説明会を主催/共催した実績がある。2011年末は早大、慶大、東大、京大、阪大、大阪府大の六大学を行脚する予定である。米国大学院学生会は来年以降もこの活動を継続し拡大していくために、説明会の開催をサポートしてくださる大学、先生方、学生さんたちを探している。ご興味がある方は、ホームページのコンタクト・フォームより気軽にご連絡いただきたい。

第二が「ニュースレター」だ。留学生の体験談や出願情報だけではなく、学校の自慢、我が町紹介など、留学説明会では伝えきれない留学生の声を幅広く発信するための活動である。上述のように、留学生たちは皆、面白い身の上話を持っている。それらが記録されないまま風化してしまうのは実に勿体無い。そこで、体験がまだフレッシュなうちにそれを文章に書き留めてもらうことで、彼らの若々しい情熱をタイムカプセルに閉じ込め、時間の侵食から守る役割を、ニュースレターは担っている。

第三が「メンタープログラム」だ。留学志望者と留学生/留学経験者を一対一でマッチングし、出願や留学準備についてアドバイスを行う、ボランティア・ベースのプログラムである。これは、僕自身がMITへ出願する際に、先述した先輩がくださった個人的なアドバイスが非常に役に立った経験から生まれたアイデアである。昨年度にメンタープログラム利用者の中から何人かが今年にアメリカのトップスクールへ留学を決めた。今年のメンタープログラムは10月初旬より運用を開始し、既に50人程度の留学生/留学経験者がメンターとして登録してくれている。登録は上記web pageより受け付けている。

これらの活動を通して、学位留学についての情報と情熱が、先輩から後輩へバトンのように受け継がれていく仕組みを作ることが、米国大学院学生会の長期的な目的である。これらの活動は、多くの留学生、留学経験者、先生方、日本の大学、団体、学生さんたちの暖かいご協力の上に成り立っている。改めて、ご尽力くださった皆様にこの場を借りて感謝を申し上げたい。そして、僕たちの活動この活動にご協力して下さる方は、ぜひ気軽にご連絡をいただければと思う。

●筆者プロフィール

小野 雅裕(おの まさひろ) /1982年大阪生まれ、東京育ち、ボストン在住。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9月よりマサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科修士課程に留学。2007年に修士号を取得し、現在は博士課程。同時にMIT技術政策プログラム(TPP)修士課程にも在籍。アメリカの大学院への学位留学を支援する組織「米国大学院学生会」を設立し、代表を務める。

ホームページ:http://onomasahiro.net/

Twitter: @masahiro_ono


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