2026年1月23日、第1回伊藤隆敏教授記念講演会が開催されました。
本講演会は、FUTIが掲げる「次世代リーダーの育成」という理念のもと、FUTIの活動に多大な貢献をされた故・伊藤隆敏教授の功績を称え、その名を冠して新たにスタートした記念講演シリーズです(詳細はこちらをご覧ください:「伊藤教授記念講演シリーズ」開始のお知らせ)。
記念すべき第1回の講演者には、2015年度FUTI奨学金受賞者であり、現在FUTI諮問委員会のメンバーとしても活躍されている羽場優紀博士をお迎えしました。羽場博士は進化生物学者で、現在はコロンビア大学 Zuckerman Mind Brain Behavior Institute にて研究に従事されています。
講演会の冒頭では、FUTI理事長の尾島巌先生よりご挨拶があり、FUTIの設立理念や活動の歩みが紹介されました。あわせて、トラベル・アワードの設立をはじめ、次世代研究者の育成に尽力された伊藤隆敏教授のご功績を振り返り、深い感謝と追悼の言葉が述べられました。
続いて羽場博士より、「人間の血を吸う都市型の蚊-その起源は古代エジプトに。進化の定説を覆す国際研究、蚊が媒介する凶悪な感染症の撲滅に向けた重要な一歩」と題して、ご講演いただきました。本講演では、2025年10月にScience誌に掲載された論文をもとに、その研究の背景や発見の意義について、分かりやすくご紹介いただきました。講演後には多くの質問が寄せられ、活発な質疑応答が行われました。以下に、講演内容を簡単にご紹介します。
講演概要
全世界規模で急速に進んでいる都市化は、人間以外の生物にもこれまでにない環境変化をもたらしています。一部の動植物が都市へ適応できた一方、多くの種が絶滅の危機にさらされています。急速に進む都市化にうまく適応できた生物が「なぜ・いつ・どのように適応進化できたのか」を理解することは、他の生物を含む生態系に依存する人間にとっても重要かつ喫緊の課題です。
都市環境への適応進化の代表例として長年注目されてきたのが、チカイエカ(Culex pipiens form molestus)です。チカイエカは「都市型の蚊」で、大都市特有の地下鉄や下水のような閉ざされた狭い空間で交尾・繁殖でき、冬でも休眠せずに活動を続けながら人を探し出し吸血します。ロンドンで第二次世界大戦中にドイツ軍の爆撃から地下鉄に避難した市民が地下に住む大量のチカイエカに悩まされたことから、英語では「ロンドン地下鉄の蚊 (London Underground mosquito)」という別名でも知られています。ロンドンだけでなく東京・ニューヨーク・パリ・モスクワなど世界中の大都市で確認されており、ウエストナイル熱など凶悪な病気を媒介することでも知られています。これまでの通説では、元来人間を刺さなかったチカイエカの祖先種が、産業革命以後の十九世紀以降に都市の地下空間で人間を刺すように急速に進化したと考えられており、「都市化により急速に進化した生物の新種の代表例」あるいは「生物史上稀に見る速さの適応進化の例」として、教科書や学術論文をはじめ新聞や科学誌でも広く取り上げられてきました。しかしながら、その進化の証拠となる遺伝的なデータは驚くほど乏しく、前述の学説は確固たる証拠がないまま流布されている状態でした。
そこで米国プリンストン大学の羽場優紀博士(現コロンビア大学)は、同じくプリンストン大学のCarolyn McBride教授とともに、孫正義育英財団らの支援を受けて2018年に国際共同研究コンソーシアム PipPop(Culex pipiens population genomics project)を設立しました。PipPopでは北米・南米・ヨーロッパ・アフリカ・アジア地域の46カ国・217人の研究者のネットワークが形成され、世界中から800個体以上のイエカの全遺伝子配列を大規模に取得することに成功しました。さらに、ロンドン自然史博物館に所蔵されていた1940〜1980年代の標本(ロンドンの地下鉄やその周辺で採集)の全遺伝子配列を新たに開発された技術で取得することに世界で初めて成功。そのデータを進化・集団遺伝学的手法を用いて解析しました。
解析の結果、「人間の血を吸う都市型の蚊」であるチカイエカはこれまでに考えられていたような都市で過去百年程度に起きた急速な進化の産物ではなく、二千年以上前に古代エジプトや農耕社会で人間の生活環境に適応した結果であることが明らかになりました。ナイル川流域の農耕地や灌漑施設などは、エジプトの乾燥した地域環境で蚊が唯一繁殖できる「オアシス」であり、人や家畜といった哺乳類が密集する環境は蚊に安定した吸血源をもたらしました。このような特殊な環境で、鳥など他の動物を主に吸血していたイエカの祖先種が、数千年の時間をかけて人間を刺す都会型に進化したと考えられます。この結果は、古代エジプトで同じ種類の蚊が媒介する寄生虫が蔓延していたことを示す考古学的記録とも一致します。
今回の成果は、「都市での急速な生物進化」の代表例とされてきたチカイエカの進化を再検証し、その定説を大きく覆しました。イエカのような都市型の蚊の起源は近代の都市ではなく、何千年も前に人類が作り上げた古代都市の環境であり、すでに人間の環境に適応した種がそのまま現代の都市環境へ入り込み「都市型の蚊」として定着したことをあきらかにしました。これは、ネズミ、ゴキブリ、スズメなど、人間社会に数千年前から適応してきた他の生物の進化史とも共通し、近代都市における生物の適応の一般的な法則の理解につながる発見です。
本研究は公衆衛生の観点からも大きな意義があります。人間を刺す蚊の多くはデング熱・マラリア・ウエストナイル熱など凶悪な病気を媒介し、蚊は人類にとって地球上最も脅威となる生物とも言われています。イエカのような都市型の蚊の分布と遺伝的交雑関係を正しく理解することは、蚊が媒介する凶悪な感染症の広がりを予測し、防ぐために欠かせません。今回の成果は、都市で進化しつづける蚊の遺伝的解析を通して、将来的にさらなる都市化がもたらす感染症リスクを考えるうえで重要な情報源となることが期待されます。
参考論文
“Ancient origin of an urban underground mosquito,” Science.
https://doi.org/10.1126/science.ady4515
FUTIスタッフ