伊藤隆敏博士の追悼文

東大友の会のために執筆
レイ・イワズミ、D.M.A.
2025年11月14日

ヴァイオリンのレッスンでは、タカ(彼はこう呼ばれるのを好んでいました)との会話はほぼ英語でした。これは主に私の考えによるもので、英語等ができるのであれば、西洋クラシック音楽のニュアンスは、日本語よりも西洋言語の方が伝えやすい部分があると考えているからです。ただし、レッスン外の会話では日本語でした。その際、お互いを「先生」と呼び合うこともありましたが、日本語という言語の性質上(更に、関係は主にプライベートなものであったため)、お互い敢えて先生の敬称を入れて話す必要はほとんどありませんでした。タカさんに関する記憶をこのように前置きするのは、二つの文化にまたがる環境に暮らす方ならお分かりいただけるかと思いますが、人との距離感は言語のニュアンスによって感じ方が変わってくるからです。

タカさんのヴァイオリンの先生として、私はほぼ毎週、彼のヴァイオリンの勉強を指導させていただく光栄に恵まれました。彼は多忙であったにもかかわらず、また、お互いニューヨークや東京、あるいはどこにいようと、1時間強のレッスン時間を確保しました。居場所が定まらないことも多く、Zoomでのレッスンが多かったですが、毎回、必ず準備万端でいらっしゃいました。

タカさんはヴァイオリンに真剣に取り組まれておられ、その熱意と準備にかける姿勢は強い意志の表れでした。応えるように、私もレッスンで与える技術的・音楽的課題は、控え目に言ってもかなり難易度の高いものが多かったです。彼の進捗ペースから推測すると、おそらく週に8時間から12時間、真剣にかつ注意深く、規律ある姿勢で練習に打ち込んでいたことでしょう。年齢を重ねてからこれほどの時間とエネルギーを注ぐことは、身体的にも精神的にも並大抵のことではありません。彼の毎週、明らかに流麗さを増していく彼の演奏に私達は喜びと達成感を覚えました。そこには教えることのできない要素—芸術的意志—が、強く響いてくるのを感じました。

タカさんはアーティストでした。彼は、楽曲に込められた可能性を直感的に感じ取っていました。演奏にはビジョンがあり、かけがえのない無形の何かをつかみ取り、それを人に伝えたいという強い想いが込もっていました。

タカさんが私のもとで学び始めた頃、彼はこうおっしゃいました。もしどんな曲でも演奏できるなら、ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番『クロイツェル』と、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータからの「シャコンヌ」を演奏したい、と。両作品ともヴァイオリン曲の金字塔として知られ、技術・音楽・体力の全ての面で高度な技量が要求されます。彼はご自身の技術レベルではまだ挑戦するには荷が重いと自覚されており、日本人らしい謙虚さで「演奏できるとは思っていませんが」と付け加えられました。確かに当時のタカさんは、『クロイツェル』も「シャコンヌ」も演奏できる段階にはありませんでした。しかし、その言葉の奥にある切実な思いと野心を感じ取ることができ、それまでの彼の取り組みかたから、直感的に「彼ならいずれ挑戦できる」と確信しました。こうして私たちは、『クロイツェル』と「シャコンヌ」を演奏するという大きな目標へ着実に歩みを進める計画を立て始めたのです。

長期的な目標を設定し、私は時折、彼に(そして自分自身にも)こう言い聞かせました。今踏み出している一歩一歩が、『クロイツェル』と「シャコンヌ」を本格的に学ぶために必要な技術、体力、経験を積み上げているのだと。レッスン内容は一層厳しくし、技術面・芸術面の双方で、より高い要求を課すようになりました。当初、タカさんはその要求に少し抵抗を示されましたが、毎回焦点を絞り、練習する題材に適度な変化を加えることで、徐々に適切なペースを掴むことができ、成果が現れ始めました。すると彼は次第に、ヴァイオリン技術の仕組みや、ニュアンスの微妙な違いを判断する音楽的根拠に強い好奇心を持つようになったのです。

タカさんはよく、レッスンに楽曲や技法、演奏スタイルの由来や歴史についての質問などを準備されていました。それに答えて説明や実演をすると、彼は注意深く耳を傾け、さらに深堀の質問をしたりし、、レッスン後はご自身で調べたり、録音を聴いたりコンサートに出かけたりされていました。そして、一週間か二週間後には、聴いたことや調べたこととともに、さらに新たな質問をすることが多かったです。。彼はコンテクストや文化的ニュアンスを理解されることを心から楽しまれていました。また、ご自身の熱心な練習を通しても、様々な演奏解釈の微妙な違いに気づかれることに嬉しさを感じていたのではないでしょうか。なぜ同じ曲を、アーティストによってこれほど異なるアプローチで演奏するのか、その理由を理解しようと探求し続けておられました。

タカさんは、様々な演奏技法やフレージングのパターンによる音色や解釈の違いを体感することを愉しんでおられました。特別な何かを求めていらしていたからこそ、彼を導くことは私にとって愉快で、ある意味ではシンプルでした。私の役割は、彼が求めるものについて知っていることをお伝えし、知らないことは情報のあるところへ導くことでした。そしてご自身がヴァイオリンを持って試す番になると、彼はよく「こうなるはずだと分かっているけど、まだ実現できていないんです」と言ってから弾き始めることがありました。評価すべき点は、確かに「こうなるはず」を的確に理解されていたことです。それゆえ、着実と表現しようとしているものへ近づいていかれたのです。

去る10月26日、ピアニストの市川純子先生と私はニューヨーク市のブルー・ビルディングにてリサイタルを開催いたしました。生きていればタカさんもこの演奏会を喜んで聴いてくださったことでしょう。純子先生はよくレッスンに立ち会ってくださっており、私が彼女の力を借りてアンサンブルの要点を実演すると、彼は「お二人の演奏をコンサートで聴いてみたい」とおっしゃっていました。私が最後にタカさんに直接お会いしたのは2月下旬のことでした。その時彼は、ドボルザークのヴァイオリンとピアノのためのソナチネを仕上げるため録音され、ピアノは純子先生が弾かれました。録音を終えた後、彼は冗談めかして「この録音を自分の追悼式で流してほしい」とおっしゃいました。それが彼に直接お会いする最後の機会になるとは、夢にも思いませんでした。一方で私は、様々な事情で長い間リサイタルを開くことができず、活動を再開したのは昨年の冬でした。10月のコンサートはタカさんへの追悼として捧げました。

タカさんが経済学者としてどのような仕事をされていたか、詳しくは存じ上げません。彼が主催された講演会やフォーラムに何度か参加させていただいたこと、キャリア初期に執筆されたオーケストラの財政問題に関する記事を共有してくださり読んだことくらいです。しかし、彼とのヴァイオリンのレッスンを通して、私は彼が芸術家の直感と、物事をより総合的かつ明確に理解しようとする知的好奇心を併せ持っていることを感じていました。弓を飛ばすリコシェ・ボーイングの理解に挑む時も、カーネギーホールでの公演のたびに熱心に聴いていらしてたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に感激される時も、日本の労働力不足や経済課題への解決策を分かりやすく説明される際も、タカさんは常に鋭い洞察力と謙虚さを失わない方でした。心から彼を偲びます。